国際化とは、見た目が西洋化することではない。洋服を来て、椅子の生活になり、英語を話せば国際人と思ったら大間違いである。私達はどこから見ても日本人だ。そのまるっきり日本人の私達やその子供たちが、「国際人」と言われるには、はたから見て、国際人が備えるべき人格を、その中に持っていることが必要となる。
今世界は変わりつつある。どのように変わるにしても、世界の中でこの日本が営々幸せな平和を紡ぐには、それに値する『国』であり『人』であることを世界が認識しなければならない。
日本は世界のどの民族とも違うアイデンティティを持ち続けた稀有な民族である。だからこそ、いま、壁に行き当たっている全世界の問題を、日本の思考回路が解決するかもしれないのだ。
そのためにも、次代を担う日本人は、世界から尊敬を受ける人々であってほしい。尊敬を受ければ日本人の主張は正しいと認識され、個人の人生もスムーズにゆくだろう。
『世界に誇れる日本』と言ってもそれは自分たちだけが誇っているだけで、単なる自己満足に過ぎない。『天才は生まれながらにして天才ならず。1パーセントの才能と99パーセントの努力』というけれど、それでも天才は出現しない。周囲が、世間が、その人を『天才!』と認めて初めて『天才』は出現するのである。
国際人も同じことである。誇っていてもはじまらない。尊敬されて初めて、『国際人の仲間』なのである。今の日本人が声高に何かを叫んでみても、世界は振り向きもしない。なぜなら、世界から尊敬を受け、頼れる『仲間』ではないからだ。仲間には仲間の『共通認識』が必要である。
その備える『共通認識』…… それこそが『国際教養』なのだ。
日本人はこうした処から一番遠い教育を受けている。日本の教育は世界と真逆の方向へと走っている。世界のトップが当たり前に知っていることや、当たり前に身に付けているエチケットやマナーズすらも、日本の政財界のトップは身についていない。何を知らなければいけないかすらも知らない。それが今の日本の現状である。だからどうも日本人は国際外交の場面で、非常に旗色が悪い。
しかも、こうしたことは個人のレベルにおいても、同じことが起きている。ただのほほん≠ニしている日本人自身が、気がつかないだけ。知らず知らずのうちに、損をしている。こんな割の悪い話はない。
国際社会は必死に2300年以上、その教養をつなぐ努力をしてきた。そして同じシナプスのつながり方を会得し、よくも悪くも、それ以外を排除してきた。それこそが『国際化』であった。
『ロザリウムが提唱するこの【国際人プログラム】は、日本の教育場面では学べない、また世界に行ったとしても当たり前すぎて誰も教えてくれない、こうした国際社会の漠とした認識・教養を身に付けるべく、多岐にわたって組まれたプログラムである。』
既に、函嶺白百合学園やいくつかの学校で、このプログラムに基づき、国際人教育が行われている。
さらに多くの子供達・若者たち、そして彼らを育てる人々に、このプログラムを伝えていきたいと思う。
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