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2008年6月26日

ルドゥテの生涯

rose.jpgのサムネール画像
1759年、ベルギー王国の北アルデンヌの森の中にひっそりとたたずむ
サンチュベールという小さな村に、かの『薔薇のラファエロ』とたたえられた
ピエール・ジョゼフ・ルドゥテは生まれました。
中世には、"もののけ姫"の白鹿のような伝説を持つこの村の教会は、
一台巡礼地として栄えましたが、今は、広場の噴水に憩う人影もない
寂れた村です。
ルドゥテはこの美しい自然と信仰厚い郷土の中で育ちました。


ルドゥテの父親と長兄は、当時流行のオペラの舞台の「かきわり」を
描いていました。パリに上京して活躍している二人の後を追い、
ルドゥテも、当時世界の中心といわれたヴェルサイユを目指します。
ルドゥテはよく、『宮廷画家』といわれますが、彼らのような絵描きは
いわゆる画家としては認められない類の人々でした。
曲がりなりにも、『画家』といわれるには、この時代、歴史画や宗教画、
王侯貴族の肖像画を描いていなければなりません。
舞台の背景や、ルドゥテのような「ボタニカルアート」を描くものは、
単なる『職人』です。
ルドゥテは確かに、マリーアントワネットに絵の手ほどきもし、
ナポレオンにも使えましたが、その地位は決して高くはありませんでした。

あるとき、当時流行の植物学の本を書いたオランダの学者が、ルドゥテの
腕を見込んで挿絵の仕事をくれたのです。
ルドゥテは、図鑑の絵を書く前に、学者も顔負けの植物学の勉強をし、
植物の細部にいたるまで正確に、しかも美しく描くことに専念します。
あまりに美しいルドゥテの植物がは評判となり、当時ジョゼフィーヌが育てていた
マルメゾンのバラたちを描くこととなります。
それが、先ごろ文化村ミュージアムで開かれていた『LES ROSES』です。

ルドゥテの前にルドゥテなし、ルドゥテの後にルドゥテなし。
もっとも美しい薔薇を描く画家として、彼は未来永劫まで『名』を残すでしょう。
でも、生前彼が手にしたのは、ほんのごくわずかの報償と
気まぐれな宮廷人の賞賛の言葉のみ。
もちろん著作権もない時代ですし、まして、当時『絵画』としての価値のない
『挿絵』職人でしたから・・・。

彼の生きた時代は、フランス大革命の時代。
激動の時代、彼の雇い主は次々没落し、画家ではない彼には『職』がなくなりました。
ルドゥテは、あの懐かしい静かな生まれ故郷のサンチュベールに戻り、最期には
食べるもにもことかく極貧生活を送ります。
フランスから戻ったルドゥテを村人は暖かく向かえ、面倒をよく見ました。
ルドゥテは、ここで、村人に看取られて静かに81歳の生涯を閉じました。

これが、私たちが『宮廷画家ルドゥテ』と呼び、輝かしい活躍と栄光を
手にしたかに思っている彼の真実の生涯なのです。

2000年、ベルギー王国大使公邸での展覧会に感激してくださったベルギー文化庁と
ルドゥテ美術館のお招きで、生徒を連れてサンチュベールの生家を訪問しました。
村長さん、村長さん、文化庁の方々始め、心優しい村人が、シャンパンを抜いて
私たちを歓迎してくださいました。当地の新聞にも取り上げられました。
この村に行って、ルドゥテがあのような薔薇が描けた理由がわかった気がします。
欲得ではなく、本当に美しいものを知っている、暖かい心を知っているからこそ、
どんな時代どんな文化の人が見ても美しいと感嘆し心が安らぐ薔薇が描けたのだと。

このとき、館長さんからプレゼントされた、原画から刷った『ダマスクローズ』は、
鎌倉サロンでいつもロザリウムの成長を見守ってくれています。


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2008年6月10日

ルドゥテの薔薇

rose.jpg
今年、ロザリウムの庭に咲いたダマスクローズです。
香りは<ミルラ:乳香>のすばらしい香り!

ながーい事、ブログにご無沙汰してしまいました。
昨年鎌倉サロンがリニューアルした直後に母が入院
この1年、母のことに加え新サロンやお授業で、目の
回る忙しさでブログを書く間がありませんでした。
でもやっと少し時間が取れ始め、PCに迎えるように
なりました。【ル・サロン・オンザ・ウエブ】を
楽しみにしてくださっていた皆様、長いお休み
申し訳ありませんでした。

写真も入るようにバージョンアップ!
また、PCに迎えるときは、張り切って書きたいと
思います。また、どうぞ、よろしく!!

さて、今回は、バラのお話・・・
写真のばらは、ピエール・ジョゼフ・ルドゥテの
『LesRoses』にも登場するオールド・ローズです。

ベルギー王国大使公邸で、このルドゥテのバラをテーマに、
ベルギーのサヴォアール・ヴィヴルの食卓をご紹介する『バラの食卓展』を開いたのは、
2000年のことでした。
この前年の暮、デュルクス大使と相談して、テーマが『ルドゥテのバラ』に決まったのには、わけがありました。
このころから、日本では、バラの展覧会なども行われるようになり、
ルドゥテのバラの絵がアンティークショップなどで、額に入れられて売られるようになっていました。
いろいろなバラの本の中でもルドゥテのバラの話が載るようになりましたが、
そこには多くの誤解があり、フランスの宮廷画家とか英国の画家と載っていたのです。
実は、ルドゥテはベルギー人。
ルドゥテの生きた時代に、ベルギーという国はなく、フランス領だったり英国領だったり・・・。ですから、フランス人などと書かれてしまうのですが・・・。
正確に言うと、ベルガエ人。
かのユリウス・カエサルが勇猛果敢とたたえたケルトの末裔でした。
こうした誤解を解き、ルドゥテがベルギー人であることをアピールしようというのが、
あの『食卓展』の目的のひとつでした。

展覧会は大好評!
毎朝、岐阜の薔薇園から、ルドゥテの絵に描かれたオールドローズに近い薔薇を運び、
皆、その香りに酔いしれまいした。
この展覧会の写真や記録は本国に送られ、私は本国のルドゥテ美術館からご招待を受けました。
2000年の夏、私は生徒を連れ、ベルギー王国研修旅行に出かけました。
ルドゥテ美術館は、アルデンヌの森に囲まれた、小さな小さな村にひっそりとあります。
1756年、ルドゥテはここで生まれ、そしてこのふるさとで、なんと食べ物もままならないほどの極貧の中、村人に看取られて81歳の人生を閉じたのでした。

日本人は、あの薔薇の絵を見るたび、『宮廷画家ルドゥテ』と聞くたび、
彼が華々しい人生を送ったように思うかも知れません。
でも、事実は、まったく違うのです。

ルドゥテの本当の人生を知ると、あの美しい薔薇の絵の花びら一片一片に、
彼の壮絶なまでの美への想いが感じられ、思わず、胸が熱くなります。
そんな、ルドゥテの一生のお話は、また次回!

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